ロココは甘いだけじゃない──ピンクと女性たちのもうひとつの物語
ロココが苦手──そんなあなたにこそ、伝えたい世界があります!
以前、主催した鑑賞会でも、「ザ・ロココはちょっと苦手だったけれど、いろいろなものがあると知って面白かった」と話してくれた方がいました。
軽やかで柔らかく甘い世界はロココ美術の大きな魅力。白粉と、チーク、甘い香水、リボンやレースがたっぷりで女性らしさを全面に押し出す感じ。開けっぴろげな恋愛やヌードなんかも多くて軽薄と受け取られることもあります。
でも、もしそのイメージだけでロココを見てしまったら・・・見落としてしまうものがある、と私は思うのです。
イメージというのは、それだけでとても強烈な力を持ってしまうからこそ。
今、西洋美術史の12の時代をテーマ別に紹介しています。今回はその中のロココ。あなたのイメージを少し覆すかもしれません!
ピンクという色とイメージの問題
あなたはロココと聞いて、何色をまず思い浮かべるでしょうか?
もしかしたら「ピンク」?この「ピンク」という色にも、実は私たちが当たり前だと思っているイメージを覆す物語が隠れています。
ピンクは女の子、ブルーは男の子──今では当たり前のように感じられるこのイメージも、実は意外と最近になってから定着したものです。
20世紀初め頃までは、ピンクは「赤」に近い色と考えられていました。赤は血や炎を連想させる、力強さとエネルギーの象徴。その延長線上にあったピンクもまた、
勇ましさや誇りを表す色として、むしろ男の子にふさわしいとされることがあったのです。
一方青は聖母マリアの象徴色でもあり、清らかさ、純粋さ、静けさと結びついて、どちらかといえば女の子に向けられることもあった時代がありました。
色に対する感覚は、時代や文化によって、想像以上に大きく変わるものなのですね。
ロココ時代もまた、今とはまったく違う感覚で色を楽しんでいました。
たとえば、上流階級の男性たちは、鮮やかなピンクやライラック色、アップルグリーンといった明るい色を堂々と身にまとい、優雅さや教養を誇示していました。色をまとうことは、単なるおしゃれではなく、自分の教養や美意識、洗練された感性を示す「言葉」だったようです。
当時のピンクは、単なる可愛らしさではなく、力と洗練、そして選ばれた者たちの誇りを象徴する色でもあったのです。
ロココといえばこの人──ポンパドール侯爵夫人とピンク

ロココを代表する存在として、やはり外せないのがポンパドール侯爵夫人です。
一般的には、ルイ15世の寵愛を受けた愛人、そしてブーシェが描いた甘美な女性というイメージが強いかもしれません。
でも彼女は、単なる宮廷の花ではありませんでした。
ポンパドール夫人は、文化と芸術の後援者として積極的に動き、なかでも王立セーヴル陶器製作所の設立に深く関わりました。セーヴルを支援したのは、単なる趣味や美意識の問題だけではないようです。国王と男女という枠を超えた、共に何かを築き上げるビジネスパートナーのような関係を作ろうと考えていたからです。
2人の間に、形に残る事業を持つことで、単なる情愛以上の、揺るぎない信頼と連帯を築こうとした──それが、ポンパドール夫人の静かな戦略でした。
彼女が愛した特別なピンクは後に「ローズ・ポンパドール」と呼ばれる明るいピンク色も、セーヴル窯の代表色として確立されました。
また夫人は、宮廷の内にとどまることなく、当時もっとも影響力を持っていた知識人サロン、ジョフラン夫人のサロンにも出入りし、文化人や哲学者たちと対等に議論を交わしていました。他にもオペラに出演したり、デッサンをしたり、知性と感性を磨くことをかかしませんでした。
国王のそばに20年もの間あり続けた背景には、柔らかな微笑みだけではない、冷静な判断力、戦略的な社交術、そして、文化を共に支えるパートナーのような存在になることで、長く、確かな信頼を築こうとしたのです。
(彼女の
ロココ時代の女性たちと、サロンという舞台

ロココ時代の肖像画に目を向けると、パステルカラーのドレスに身を包み、優雅に微笑む女性たちが浮かび上がります。柔らかい色彩、軽やかな筆致・・・彼女たちの人生も、幸福に満たされていたかのように見せています。
けれど、それは表面だけのこと。彼女たちは、「飾り」ではありませんでした。
女性が政治の場に立つことを許されず、名前すら歴史に残らないことの多かった時代。知性を武器に、自ら居場所を作り出した女性たちがいたのです。
彼女たちが選んだ舞台、それが「サロン」でした。
優れた趣味と教養を持っている女主人公が、豪華な広間で客人をもてなすだけでなく、そこでは文学や芸術のさまざまな問題が語られていたようです。文化を育て、思想を広め、時には社会そのものを動かすための、力の拠点だった。
上の絵はジョフラン夫人主催のサロン。お茶とお菓子と共に、噂話に花を咲かす。そんなイメージではなく、結構堅苦しい感じだと驚きませんか?
ジョフラン夫人(1699-1777)は貴族の血を引かない商人の娘として生まれ、結婚によって得た15万リーヴルもの年収を惜しみなくサロンに注ぎ込みました。
彼女のサロンは、週に二度。水曜日にはモンテスキューやヴォルテール、月曜日にはブーシェやラ・トゥールといった芸術家たちを招き、パリ文化の最先端を30年近くにわたって牽引し続けたのです。若き日のモーツァルトも、彼女のサロンで演奏したといわれています。
20年以上かけて編纂された『百科全書』が、困難を乗り越えて出版にこぎつけた裏にも、彼女の静かな支えがあったと言われています。
ド・デファン侯爵夫人(1721~1764)は、また別の形で時代に挑みました。19歳で結婚しますが数年後に別居します。50代で視力を失いながらも、サロンを手放すことなく、口述による手紙で知識人たちとの交流を守り続けました。
晩年には、20歳年下のイギリス人ホレス・ウォルポールと深い友情を結びます。ウォルポールは彼女を知性と精神性を備えた稀有な友人として高く評価し、手紙を通じて励まし続けました。
彼女は彼に静かな恋情を抱きながらも、その友情と尊敬に支えられ、生涯言葉を手放すことはありませんでした。
理性と誇り、孤独と情熱を抱えたまま、彼女は静かに生涯を閉じますが、遺された膨大な手紙は、のちに出版されて、18世紀の知性と人間の深い感情を、いまも鮮やかに伝えています。
ジュリー・ド・レスピナス嬢(1732-1776)は、とある伯爵夫人の私生児として生まれ、幼い頃からド・デファン侯爵夫人のもとで読書係として育てられました。
やがて、知識と感受性を武器に、百科全書派のディドロやダランベールといった
当時を代表する知識人たちと深く交流を持つようになります。しかし、ド・デファン侯爵夫人とは、やがて微妙な確執が生まれ、レスピナス嬢は独立して、自らのサロンを開く道を選びました。彼女のサロンは、知識だけでなく、感情のやりとりを大切にする場だったと伝えられています。
けれどその光の裏で、晩年病と愛情問題に苦しみます。ギシャン侯爵への報われない想いに悩みながら、心を病み、短い生涯を閉じました。
パステルのドレスの下には、こんな甘さに隠された、確かな強さが宿っていたのですね。
まとめ
ロココ時代、パステルカラーに包まれた肖像画の中の女性たちは、一見すると「可憐なお姫さま」のように見えるかもしれません。
けれど、その柔らかな色彩の裏側には、知性と戦略、そして確かな影響力を持った
隠れたリーダーたちの姿がありました。
ふんわりとした絵画、甘い色使い──ロココには確かにそんなイメージが強くまとわりついています。でも、それだけで見てしまったら、そこにあった本当の強さや意志を、きっと見落としてしまう。
それがとてももったいないと思うのです。
▼ド・デファン侯爵夫人の手紙はこちらから読むことができます。ウォポール宛の情熱的な手紙を読み、どんな女性だったのだろうかととても興味が湧きました。
https://archive.org/details/lettersofmarquis01dude/page/6/mode/2up
参考
「色の秘めたる歴史 75色の物語」カシア・セントクレア著
「名画で読み解く 世界史」祝田秀全監修
「バロックの光と闇」高階秀爾著
The History of Pink: from Pompadour Rose to Millennial Pink
Think pink with Madame Pompadour!