先日、ある浮世絵のことを調べていました。
それは、木曽街道(中山道)にある69の宿場を描いたシリーズの一枚。江戸時代、日本橋と京都の三条大橋を結ぶ約526kmの道のりを、多くの旅人が歩いていました。
私が住む滋賀にも宿場があり、浮世絵にはその中の守山宿が描かれていました。
守山は「京たち、守山泊まり」と言われ、京都を出た旅人が最初に宿泊する場所だったそうです。京都・三条大橋から守山まで約34km。
京都の中心地にある三条大橋から、守山まで・・・・・
私にとっては、普段電車で移動することのある距離。地図や話で聞くのとは違い、その距離を実感できました
昔の人はそんなにも歩いていたのか・・・と衝撃を受けました。しかも舗装もされていない道、履物は草履、しかも山を越える。
この浮世絵が世に出たのが1834〜1842年ごろ。
そしてモネが生まれたのが1840年。ちょうどこの時代、モネもまた「歩く画家」だったのです。
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モネは若い頃、とにかく「自分の足で風景を探しに行く画家」でした。
フランス各地を巡り、オランダ、イギリス、イタリアなどへ。
時には火山地帯の険しい道を越え、荒波の打ちつける岩場に立ち、筆を動かすことも。
自分が求める光と色彩を追いかけ、天気が変わるのを待ち続ける日々。作品を見るだけではわからない、彼の体力と執念のすごさです。
しかし60代になり、ついに車を購入。旅する画家だったモネは、自ら作り上げたジヴェルニーの庭へと視点を移していきます。
なぜモネは旅をやめ、庭にこもったのでしょうか?
それは老いのせいではなく、“新しい世界”を作るためだった
「じゃあ、晩年のモネは楽になったの?」と思うかもしれませんがその逆です。
60代から亡くなるまでのおよそ26年間は、これまでの年間平均よりも多くの作品を生み出しています。そこには新しい絵画の表現を模索し続ける「新たな挑戦」がありました。
もしあなたが60代になったとき、何か新しいことを始めるとしたら、「これまでのやり方を活かしながら挑戦する」か、「まったく新しいことに飛び込む」か——どちらを選びますか?」
モネは、額縁の中を見る絵から、見る人を包み込む空間的な絵へ挑戦を始めたのです。
モネの晩年とはこれまでの「集大成」でも「過去を振り返る」でもなかったんだなぁと思います。
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前回のメルマガで少し宣伝をさせていただきましたが、「モネ 睡蓮のとき」の展覧会が見せてくれるのは、モネが何を目指し、どうやってそこにたどり着いたのか。
もはや「印象派の画家」でなくなった、モネがたどり着いた新しい絵画の世界。
それは絵を見る体験そのものを変えようとした挑戦です。
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